2026年3月追記

★なお、2025年11月に発表された三浦寛先生による「新重心理論」は、快の定義まで変えてしまいました。
勿論楽と快の区別をつけることは大事なんですが、操体の進化はすごいものです。

私の操体における「レーベンス・テーマ(生涯のテーマ)」は
「操体における楽と快の違いを明確にする」ことです。

ストレッチや体操などで「楽な方にきもちよく動いて~」という指導をしていても、
私は文句などは言いませんが「操体」は別です。

操体の疑問はこの「違い」がわかると氷解します。

これが「考え方の基本」であり「仕組み」の理解です。
仕組みと考え方の基本を知らずに、テクニック(操法)や、言葉だけ「きもちいい」と
いう言葉を使っても、結果が出ないのは、当然なのです。

これは25年以上講習で伝えていることですが、本当です。

施術+ベーシック講習では、この辺りをしっかりお伝えしています。
「目からウロコ」とか「よくわかりました」というお声を頂いています。


私の個人レッスンや、操体法東京研究会にて
「楽と快(きもちよさ)の違いがわかりません」という方がいらっしゃいます。

その時のことをブログに書いてみました。
楽と快の違いを伝えるのは、操体臨床家の役目です
(操体法大辞典より)

楽と快は違うというのは不変の事実ですが、もっとわかりやすく、

「操体では」

「楽な動きにに問いかける動診と操法と」

「快に問いかける動診を操法は」

「違います」「区別をつけています」

アナタが、楽と快の違いが分からなくても
操体指導者がちゃんと知っています。

それができるのが、操体指導者なのです。

それをアナタに伝えるスキルを学んでいるのが、操体のプロなのです。

楽と快は違う、創始者橋本敬三先生はそうおっしゃった

操体の成り立ち

楽と快の違い
快は探すものではなく、出会うものである

 

「どちらがきもちいいですか」という誘導は、楽と快の違いを混同している

詳しく言うと、現在は「楽な動きか辛い動きか」と、二つの動きを比較対照する動診(第一分析)と、
一つひとつの動きにきもちよさをききわける、第二分析があります。
楽な動き(動き)と、きもちよさ(感覚)は、動診のやり方が違います。

私のところにいらっしゃる方の中で、一番多い悩みが

「どちらがきもちいいですか?」と聞かれても分かりませんでした、ということです

例えば、ぎっくり腰で這っていらっしゃったとします。

そこで「どちらがきもちいいですか」と聞かれたら、答えられないはずです。痛いから。

もうひとつ。
「どちらがきもちいいですか」という問いかけをしている指導者(講習をやっている方)は、実際に人様のからだを診ていないのではないかと思います。

さらにもうひとつ
「どちらがきもちいいですか」と聞かれ、「わからないから適当に答えて、行くのをやめた」というケースも聞いています。

「どちらがきもちいいですか」「きもちよさを探して」という指導は、
橋本敬三先生はされていませんでしたし、操体のセオリー(楽と快は違う、診断と治療の区別をつけること)に反しているのです。

「どちらがきもちいいですか」
「きもちよさを探して」

あるいは、最初から、診断(動診)をせずに「きもちよく動いて」というのは、診断分析を飛ばしていることになりますから、操体の臨床になり得ません。

操体は、まず「診断(分析・動診)」を行ってから、「治療(操法)」という段階を踏むからです。

言われたほうも、からだをごにょごにょ動かしてみることになります。
そうなると「きもちよさを探して動け」ということになります。

★きもちよさを探して動いても、「きもちよさ」はききわけられません。見つかるのは「痛くない」ところです。何故なら、どこか辛いから、操体を受けに来ているのですから。

診断分析で、きもちよさの有無を「ゆっくり動いて」
確認してから「きもちよく動いて」となるわけです。

なお「快不快の法則」というものがあります。ボディに歪みが生じている場合、動かして診ると「快あるいは不快」がはっきりします。なお、ボディに歪みがなく、ニュートラルな場合は「楽でスムースでなんともない」ということになります。

「極楽」とは、あの世のことではありません。楽しさを極めると、ただ今、そこが「極楽」になります。
 
「極楽」とは、読んで字のごとく、「楽しさを極める」ことです。
トコトンまで楽しさを追求すると、その時その場所が「極楽」になります。
 決して、あの世に行くことや、酒池肉林の快楽の世界に溺れることが、
「極楽」なのではありません。
 
「楽」と「楽しい」は、似て非なるものです。
 
「楽」をすることを「楽しい」と勘違いしてしまうと、
どんどん「楽」な方に流されていくのが、自分でもわかるハズです。
 一方、「楽しい」ことを選び続けていると、
時には辛いことも苦しいことはあるかもしれませんが、
自らの意志で流れに乗っていることがわかるようになるハズです。
 勝手に「流されている」のか、
それとも自ら積極的に「流れに乗っている」のかが、
「楽」と「楽しい」の違いです。
 
 
自らを監獄に閉じ込めてしまうことを「地獄」と呼びます。
「楽」な方に流されていく先のことを、人は「地獄」と呼び、
「楽しい」方向の流れに乗っていく先のことを、
人は「極楽」と呼ぶのでしょう。
 
 

快は探すものではなく、出会うものである

 
「楽」と「快」の違い
「楽(なところ)」は探すと見つかる。「きもちよさ」は探しても見つからない。
「楽」は比較対照できる(相対的)だが、「快」は絶対的である。つまり比較するものではない。
 
「楽」は結果であり、「快」はプロセスである

操体の講習 なぜきもちよさを探す、のではないのか(ブログ 操体法大辞典より)

なお、仏教の本を読んでいたら「悟りは探しても見つからない」ということが書いてありました。
「快」もそうなのかもしれません。

また、今までに何人かどうしてもこの違いが通じなかった人がいますが、

「動けば必ずきもちよさがあるはずだ」という思い込みをしていました。

激しい思い込みなので、これはご本人に任せるしかありませんが、操体を学んでいるのにいつまでも
「きもちよさが見つからないわ」と探し続けるのは、残念だな、と思います。