2016年1月追記
私の個人レッスンや、操体法東京研究会にて
「楽と快(きもちよさ)の違いがわかりません」という方がいらっしゃいます。
その時のことをブログに書いてみました。
「楽と快の違いを伝えるのは、操体臨床家の役目です」
(操体法大辞典より)
楽と快は違うというのは不変の事実ですが、もっとわかりやすく、
「操体では」
「楽な動きにに問いかける動診と操法と」
「快に問いかける動診を操法は」
「違います」「区別をつけています」
アナタが、楽と快の違いが分からなくても
操体指導者がちゃんと知っています。それができるのが、操体指導者なのです。
それをアナタに伝えるスキルを学んでいるのが、操体のプロなのです。
目次
楽と快は違う、創始者橋本敬三先生はそうおっしゃった
私の「レーベンス・テーマ」(ライフワーク)は「楽と快の違い」をあきらかにすることです。
実際、体験していただくと皆さん「全く違う!」と驚かれます。
「どちらがきもちいいですか」という誘導は、楽と快の違いを混同している
詳しく言うと、現在は「楽な動きか辛い動きか」と、二つの動きを比較対照する動診(第一分析)と、
一つひとつの動きにきもちよさをききわける、第二分析があります。
楽な動き(動き)と、きもちよさ(感覚)は、動診のやり方が違います。
私のところにいらっしゃる方の中で、一番多い悩みが
「どちらがきもちいいですか?」と聞かれても分かりませんでした、ということです
例えば、ぎっくり腰で這って来所したとします。
そこで「どちらがきもちいいですか」と聞かれたら、答えられないはずです。痛いから。
もうひとつ。
「どちらがきもちいいですか」という問いかけをしている指導者(講習をやっている方)は、実際に人様のからだを診ていないのではないかと思います。
さらにもうひとつ
「どちらがきもちいいですか」と聞かれ、「わからないから適当に答えて、行くのをやめた」というケースも聞いています。
「どちらがきもちいいですか」「きもちよさを探して」という指導は、
橋本敬三先生はされていませんでしたし、操体のセオリー(楽と快は違う、診断と治療の区別をつけること)に反しているのです。
「どちらがきもちいいですか」
「きもちよさを探して」
あるいは、最初から、診断(動診)をせずに「きもちよく動いて」というのは、診断をすっ飛ばしていることになりますから、操体の臨床になり得ません。
言われたほうも、からだをごにょごにょ動かしてみることになります。
そうなると「きもちよさを探して動け」ということになります。
★きもちよさを探して動いても、「きもちよさ」はききわけられません。見つかるのは「痛くない」ところです。何故なら、どこか辛いから、操体を受けに来ているのですから。
診断分析で、きもちよさの有無を「ゆっくり動いて」
確認してから「きもちよく動いて」となるわけです。
楽と快の違い、を理解する前に「楽」と「楽しい」は違うということを認識する必要があります。
はづき虹映氏がメルマガでなるほど!ということを書いていらっしゃいました
(すぴナビ通信2011年10月11日、12日分より引用抜粋させていただきました。
「楽」と「楽しい」が違うように、「楽」と「快」も違うのです。
楽 ≠ 楽しい(楽と楽しいは違う)
トコトンまで楽しさを追求すると、その時その場所が「極楽」になります。
「極楽」なのではありません。
どんどん「楽」な方に流されていくのが、自分でもわかるハズです。
時には辛いことも苦しいことはあるかもしれませんが、
自らの意志で流れに乗っていることがわかるようになるハズです。
それとも自ら積極的に「流れに乗っている」のかが、
「楽」と「楽しい」の違いです。
「楽」な方に流されていく先のことを、人は「地獄」と呼び、
「楽しい」方向の流れに乗っていく先のことを、
人は「極楽」と呼ぶのでしょう。
快は探すものではなく、出会うものである
「楽(なところ)」は探すと見つかる。「きもちよさ」は探しても見つからない。
「楽」は比較対照できる(相対的)だが、「快」は絶対的である。つまり比較するものではない。
操体の講習 なぜきもちよさを探す、のではないのか(ブログ 操体法大辞典より)
なお、仏教の本を読んでいたら「悟りは探しても見つからない」ということが書いてありました。
「快」もそうなのかもしれません。