橋本敬三先生にはじまる、操体関係者の相関図を作成中です。
というのは、橋本敬三先生は定例講習をされていたとか、ごく一部を除いては、内弟子をとられていなかったからです。

操体がブレイクした昭和50年代は、日本中から医者に見放されたような患者さんや、操体に興味を持つ専門家が仙台温古堂に集まったそうです。とにかく色々な人が集まり、橋本先生に会いに来られたという事実があり、そういう人達から「橋本先生から操体を習った」という話を聞きます。

橋本先生の著書にも書いてありますが、橋本先生はある人達を「温古堂ファン」と定義しています。
勿論ファンは必要ですし、そういう方からアドバイスをもらったりする場合もあり、大切にされていたようです。

以前、私はスペインの方とメールのやりとりをしていましたが、会ったこともないその人から、「私は先生の弟子です」と言われ、「私は指圧と操体の治療院をやっていますが、貴女の名前を屋号につけました」という連絡をもらって驚いたことがあります。
私でさえこんなことがあるのだから、橋本先生にもそういうことがあってもおかしくありません。

また、私の師匠である三浦寛先生は、橋本敬三先生の内弟子(橋本先生と奥様の寝室にまで入ることを許されていたそうです)ですが、23歳の時、橋本先生から「東京に行け」と言われ、7年間臨床を積み、30歳の時に操体の講習を始めました。これは今だに続く「操体法東京研究会」です。
橋本先生はこの研究会の顧問でもありました。

これは快療法の瓜生良介氏と、連動操体法の根本良一先生から直接聞いた話ですが、仙台に橋本先生を尋ね「操体を習いたい」とお願いしたところ、「東京に弟子の三浦がいるから、三浦に習え」と言われ、操体法東京研究会の定例講習を受けたそうです。
宴席で瓜生氏は「本当は橋本敬三先生に習いたかった」とおっしゃっていたのが印象に残っています。

この他、滝津弥一郎氏(故)、石井康智先生、奈良操体の会の北村翰男先生、長野の白澤誓三先生は、三浦先生の講習を受けて(あるいは受ける前に)仙台の温古堂に出入りされていたという話を聞いています。
仙台の今昭宏先生は、同時期に操体法東京研究会の定例講習を受けていて、三浦先生の推薦で、橋本先生の代診として温古堂勤務に至ったそうです。

なお、橋本敬三先生が「温古堂ファン」と本に書かれている茂貫雅崇氏、故佐藤武氏ですが、「右大臣」「左大臣」と呼ばれていたと聞いています。
私は両方にお会いしたことがありますが、茂貫氏は会社員時代、交通事故でムチ打ちになり、何をやっても治らなかったのに、温古堂で橋本先生の治療を受けて劇的な治癒を目の当たりにして、手技療法の道に入ったと聞きました。カメラや録音に詳しいので、橋本先生の講習の撮影などをお手伝いされていたようです。

佐藤武氏ですが、仙台のスポーツクラブの社長さんで、橋本先生には非常に尽力して下さったようです。
亡くなる少し前、サトウサンペイさんとの共著で『操体法入門』という本を出されましたが、その中に操体としては、決定的なミスがありました。
誤植などというものではなく、両手正面合掌で上肢を回旋させる場合に、回旋させるほうの足に体重がかかる、というイラストがありました。
この他にも幾つか指摘点があったのですが、それを三浦先生と私が出版社に伝えたところ、非常に怒られたという話を聞きました。その後、本の内容は改正されることなく佐藤氏は急逝されました。
本の内容を佐藤氏の為にも1日も早く改正していただきたいと思っています。

ちなみに、私が最初に操体を習ったのは、小林完治先生です。私は1999年に本を出すまで、小林完治先生が一体誰から操体を習ったのか知りませんでした。習った内容から言って、根本先生の連動操体に似ているような気もしていました。その後、小林完治先生から滝津弥一郎先生の講習を受講なさった話を聞きました。

なお、2013年5月に亡くなった操体道普及友の会の中川重雄先生は、関西地方で多くの支部を設立し、一般の方の健康増進法として操体を「操体道」として普及活動をなさっていましたが、先日、お弟子さんが書いた追悼文を見つけました。

大阪生まれ。市立実務学校卒業。技術軍曹で終戦。三菱重工神戸造船所に入社。独学で創造学を学び、科学技術長官賞などを受賞。自身の肝臓病を食事療法と民間療法で克服。59歳で操体法と出会う。橋本敬三先生の紹介で北田洋三先生に師事。操体技術の実践研究を始め、操体道普及友の会発足

北田洋三先生は、関西操体ネットワークの代表であり、仙台の温古堂に通っておられたそうです。三浦先生の講習は受講されていないそうです(三浦先生に直接確認)。

関西ネットワークの他の先生は、操体法東京研究会の講習を受けておられますが、北田先生はショートカットで大阪に操体を伝え、中川先生に伝わり、健康体操、養生法として神戸から関西、中部になど西日本全域に広がったのだということがわかります。

(つづく)