2016年1月加筆修正 ★無断転載を禁じます ★

1.操体の成り立ち(1)
2.操体の成り立ち(2)

操体の成り立ち(1)

 ある人にとって、操体は自力自療(自動)の健康法であり、ある人にとっては、フィットネスクラブや、カルチャーセンターで、インストラクタ-の指導によって行うものであり、ある人にとっては治療として臨床家が行うものである。また、操体の「生命は快に従う」というセオリーに惹かれ日々の生活の中に生かしている人の哲学でもある。 これはどれも操体の一面を表しているのだが、その一角しか見ていないと、常に狭い視点(範囲)でしか操体を理解することができないのである。 

 操体はきちんと体系づけられてはいるのだが、そのシンプルさゆえに様々なところに入り込み、その本質を掴みきれないことが多々あるように見える。例えば操体は手技療法の一環として捉えられることが多い。 実際、多くの臨床家は操体について、誤った認識を持っている場合が多いのではないかと思う。 誤ったというと語弊があるかもしれない。


正確に言えば、操体の中のきわめて古い時代の認織しか持っていない場合が多いということだ。 そのいい例が「操体って、楽な方に動かして瞬間的に抵抗をかけて力を抜かせればいいのでしょう」というものである。  

そこで私は彼らに尋ねてみる。 「果たしてそれで臨床が成り立つと思いますか? 効果があると思いますか?」 殆どの方は「いや、そうは思いません。だから、操体だけでは足りないので他の治療法と組み合わせるのです」と答える。 

 何故そのようなことが起こっているのだろうか。また、身体に関わる世界の中で、操体がどのようなポジションにあり、どのような特性を持っているのか、順を迫って説明して行こう。  

まず、最初に留意していただきたいことがある。 今から40年前と現代の人間の生活環境とその健康度合いの違いである。現代の人間の病(やまい)は、複雑化しており、かつ治りにくくなっている。 おそらく、橋本敬三先生が現役の時代は、楽なほうに動かして、瞬間急速脱力、という、正体術に近い逆モーション運動で間に合っていたのではないか(第一分析)。  操体は、『動かして壊したのだから、動かしてみて治す』という考えがあった。操体の特徴である『動診』である。しかし最近は『動かして壊したのではない』、すなわち、動かなさすぎて壊す、環境によって壊す、心の問題から体を壊すという傾向が圧倒的に多い。動かしただけでは解決できないケースも増えてきたのである。

  ★二者択一の瞬間急速脱力が悪いと言っているわけではない。が、実際経験として、 『楽なほうに動かして瞬間急速脱力』よりも『快適感覚をききわけ、味わう』という流れのほうが、『効果が持続する』のは事実である。  

操体の歴史をひもとくと、昭和3年頃、橋本敬三医師(当時31歳)が函館で、高橋迪雄(みちお)氏の正体術に出会うところからはじまる。
函館中央病院慈恵院で外科医となった頃である。知り合いの父上が正体術矯正法によって、健康を取り戻したのがきっかけで興味を持たれたのだという。
橋本敬三先生は、高橋迪雄氏の高弟に教わったと聞く。   当時は「整形外科的疾患はまるでお手上げ」で、様々な民間療法を試していた、と橋本敬三先生のその著書にある。  橋本先生は、後に三浦寛先生に「楽なほうに動かして治るんならばそれにこしたことはな
い」、「(正体術には)いたく興味を引かれた」と、 おっしゃっていたという。 
民間療法の治療家達は、治すことはできるが、何故症状疾患が治るのかは解らず、その原理を説明できなかったという。 

橋本先生はここで気づかれた。何故、それらの療法で疾患が治るのだろうか。
彼らは、からだの外郭をなす、運動系の歪みに着目していなかったのだ。鍼や按摩、整骨など、やり方は多数あり、どれも骨格の歪みを正している。そして、その二次的作用で、症状疾患が改善されるのである。  
正体術の特徴は「痛くない方、楽な方の最大可動極限まで動かして、呼気とともに瞬間急速脱力する」いうものだ。現在入手できる正体術の本を見ると、客観的な形態観察を入念に行っている様子が書かれている。 施術者(治療者)が、患者のボディーの形態観察を行い、長年の経験と勘に基づいてボディーを動かし、楽な方、痛くない方、あるいは可動域のある方向を選択し、可動域の極限で息を止めさせ、身体をつっぱらせるようにさせ、ドスンと全身の力を抜かせるものであった。 
正体術の基本を読んでみると、面白い事に気が付く。  


そこでまず正しく仰向けに寝たら、今度は頸と坐骨すなわち腰のところで身体を支えて、背中をぐっとそらし、やや上半身を反り橋のような形にして、背中を畳や蒲団などから離してしまうのです。こうすれば勢い胸が張ってきますから、肋骨矯正の準備に、ここで貝殻骨(肩甲骨)を背中のまん中で左右くっついてしまうようにするのです。そして手はまっすぐ両側につけて伸ばし、手のひらが上に向くようにします。同時に足もまっすぐに伸ばしますと、腿の下も膝の下もぴったり下について膝が反るために、自然にかかとのところが畳から少し持ち上がるようになります。こうして5、6秒程兎の毛ほども動かさずにじっとしていると、元よりなんの苦痛もありませんが、そのうちにだんだん全身に力が満ちみちて来て、ほとんど強直状態に入った形になります。やがて疲れを覚えたら、今度は急に全身の力を抜いて、一時にからだ中グニャグニャにし、自然の重みでドサリと落とすのです。誰しも思わずこのとき、深呼吸をせずにはおられませんが、その深呼吸が普通の呼吸になるまでじっとしています

正体術健康法―操体法の源流「正體術矯正法」現代版 たにぐち書店

『正体術健康法』たにぐち書店

  

操体では形態観察の前に正仰臥位をとらせる。視診(形態観察)を行う時、仰臥位の場合、まず「肘を支えにして、お尻を軽く天井に持ち上げて下さい。ゆっくり下ろしていただけますか」というように、からだをまっすぐにするための補正動作をとらせるのである。この動作は正体術に似ているではないか。  おそらく正仰臥位をとらせるというのは、間違いなく正体術に派生しているに違いない。
また、その後を読むと

「どんな境遇でも実行し得るだけの方法で、壮者なお少年のごとく、老齢なお青春のごとしという驚くべき効果があるのですから、実験なさらない方にはまるで奇跡のようにしか思われないくらいです」と、正体術の効能が説かれている。  
もっとも、最初にこの方法を始めるためには、

まず矯正法で全身の骨組をなおしてからでないと、曲がったなりに固まって何の効果もありませんし、ことに銘々の体質や年齢、気候等によってもそれぞれ加減を要しますから、一応専門家の指導を得てからでないと、たとえこれを読んだだけで実行してみても、たいした危険はないまでも、思いのほか効果の上がらない場合がありましょう。各種の姿勢をやってみて、どれも苦痛なく容易に真似しうる方々だけは幸いにして正体なのですから、その人々だけは上記の正体術を実行してその効果を実験下さい

正体術健康法―操体法の源流「正體術矯正法」現代版 たにぐち書店

「自分でできる」という正体術も、まずは専門家の全身の矯正後に行わないと、思いのほか効果が上がらないとある。 
これは 操体においても同様で、著しい歪み(健康の傾斜の度合いが大きい場合)がある場合、見よう見まねで自分で試してみても、危険はないものの、思いの他効果があがらない場合が殆どなのではないかと思う。やはり最初は専門家の指導を受けたほうが良いのである。 
瞬間脱力の意味も記されている。  

つまり動かしてみて、出ていた骨が入るなり、入りすぎていた骨が出るような姿勢をすれば、そのときだけは、そこの骨組の不正はたしかに治っているのです。しかし、普通にもとの姿勢に戻すと、せっかく引っこんでいた骨は、肉を押し分けてまた出てきます。もとよりひとのからだの中で骨の動く模様は、空っぽの紙ぶくろの中でステッキを動かすようなものではありません。いわば、お米の入った米袋の中を、すりこ木でかきまわすようなもので、骨が沈んでゆくと、あとのすき間に筋肉がふくれ出して、うずめてしまうわけです。 

正体術健康法―操体法の源流「正體術矯正法」現代版 たにぐち書店

これは急速瞬間脱力で、床にからだが落ちるような刺激でないと、骨格の歪みは矯正されないということを述べている。
現在では固有受容器の働きなどが解明され、可動が悪い方に痛みをこらえて無理に動かすのではなく、可動域が大きいほうを他力的に、可動域極限まで動かし、しばらく保持するようなPNF的療法に繋がってくるのだ。これらの類似によって、操体法をPNFと同じものだと理解している手技療法家、スポーツトレーナーが多いように思えるが、実際は正体術に類似しているのである。  
★快適感覚・からだの要求感覚に委ねた脱力(必ずしも瞬間急速脱力ではない)であっても、骨格の歪みは解消できることが最近は分かってきている。 

2.操体の成り立ち(2)

橋本先生は、昭和12年に日中戦争に応召、15年帰還、19年に再応召で北朝鮮へ、という多忙な時代を過ごされるが、その中で、昭和初期から19年の間に、鍼灸治療についての研究論文を『漢方と漢薬』誌に投稿されている。

平成11年(1999年1月)の、「橋本先生を偲ぶ会」で配布された年表を見ると、昭和19年に「般若身経」を発表したという記載があるが、昭和32年『日本医事新報』745、746号に掲載された記事には、般若身軽の原型だと思われる『平均集約運動法』が掲載されている(『誰にもわかる操体法の医学』農文協)。   

 いずれにせよ、般若身経の原型が、昭和19年には存在していたということで、出自は何処なのか、興味深いところである。おそらく正体術ではなかろうかと思うのだが、どなたかご存じの方はいらっしゃらないだろうか。  

戦争が終わって3年後の昭和23年、橋本先生がシベリアから帰国した年に三浦寛先生が生まれる。橋本先生は暫く日本の医学界を眺めておられたが、やがて医学専門誌に投稿を開始する。この時代の論文は『論想集 生体の歪みを正す』(創元社)に詳しい。

 昭和40年代に入り、仙台の赤門(赤門学志院、現:赤門鍼灸柔整専門学校)柔整科に入学した18歳の三浦先生は、ベレー帽を被り、背筋を伸ばして自転車に来って学校にやってくる初老の紳士の姿を見た。その紳士に惹かれ、受付の女性に聞いてみると、その紳士は温古堂診療室というクリニックのドクターで、鍼灸科でクラスを持っているのだという。三浦先生によると、そのドクターが何をやっている人なのか(というか、その前に操体、という名称は存在しなかったのだが)は全く知らず、ダンディな紳士に、言うなれば一目惚れしてしまったらしい。当時橋本先生は柔整科では授業を持っていらっしゃらなかったのだが、三浦先生は「自分は鍼灸科の生徒ではないが、先生の授業を受けたいから、受けでもいいですか」と、とお願いしたところ、快諾してくださったそうだ。これが長く続く師弟の縁の始まりとなる。 

そして、橋本敬三先生は、神戸にいた三浦先生のお父様を、三浦先生にナイショで仙台に呼び「息子さんを預からせて欲しい」と言ったそうである。
なお、三浦先生は柔道整復科を卒業し、赤門の鍼灸科に入る。当時は柔道整復科から鍼灸科に行く人は珍しかったそうである(柔道整復師の方がエラかったという風潮があったのだろう)。
その、三浦先生の鍼灸科の授業料を出して下さっていたのは、橋本敬三先生だった。

橋本先生が受け持っていたのは、治療一般だったが、内容的には操体のことを話されていたという。
ある時、三浦先生が「先生がやっているのは、一体何というのですか」と、問うと、「名前などどうでもいい。真理が大切なんだ」という言葉が返ってくるのであった。  
実際1976年7月17日(昭和51年)放送のNHKの番組(『操体法 橋本敬三の世界・温古堂診療所から』農文協にて、ビデオ、DVD化)では、操体法という名称は出てこない。ナレーションでは「橋本さんの治療法」と言っているし、仙台市内で開かれた勉強会の張り紙は「東洋医学」と書いてある。名称がつけられたのは、その直後なのである。   

橋本先生の映像はいくつか残っているが、公になっているのは、80歳近くなってからのものが多い。『操体法治療室』の前半(たにぐち書店、三浦寛と共著)で、今昭宏先生が描写している先生は、優しい好々爺のようなイメージがある。79歳の時に、NHKに出演した際の映像でも同様である。しかし、橋本先生に出会った当時、三浦先生は「何て孤独な目をした人なのだろう」と思ったと聞く。  
シベリアから帰国し、昭和20年代後半に入ってから医学誌に寄稿を続けては無視されつづけ、自分の診療室では注射も打たず、薬も出さずということで、医師であるご子息、奥様にも理解されていなかったのだという。
上記『橋本敬三の世界』では、インタビュアーが、ご長男であり、外科医である橋本信先生にインタビューを試みているが、その中で信氏は、「私は外科専門の、普通の西洋医学やってる医者ですから・・・・・・。親父の治療についてはあんまり関心がないものだから・・・・・・(しばしの沈黙)。親父は親父、私は私の道を行くということですね)」と、語っている。親父のやっていることは関係ない、という言葉が印象的だ。  一番身近な人が理解してくれないということがどれ程のものなのだろうか。  

話は戻るが、三浦先生が仙台の温古堂診療室で見たのは、紛れもなく正体術そのものだったという。左右比較対照の動診、痛い方から痛くない方に動かして、呼気と共に瞬間急速脱力させる。たわめの間も回数も、操者が指示する。これが現在も裾野に広がり続けている操体法の源泉である。  三浦先生は5年間仙台で過ごし、柔道整復師と鍼灸師の免許を取得した。

もう少し橋本先生の傍にいたいと思っていたのだが、三浦先生は「東京に行け」と言う橋本先生の指示に従って、23歳で東京にて開業に至る。
その後、東京操体療法研究会(現操体法東京研究会)を主宰し、その操体法講習会からは、今昭宏先生(操体医学研究所・今治療室)、石井康智先生(早稲田操体法研究会)、根本良一先生(癒動研究所)、田村茂兵衛先生(『操体法の医学と食養』)、渡辺栄三先生などの先生方を輩出している。  現在、東京操体フォーラムの実行委員は、操体法東京研究会の出身者であり、私もこの講習で学んだ一人である。橋本敬三先生が顧問である。
この研究会は、いわゆる操体の登竜門と言っても過言ではなかろう。 三浦先生が上京してから数年後の1975年、橋本先生は、農山漁村文化協会の月刊誌『現代農業』に一般向け連載を始めることになった。 
当時78歳。
この連載に関する橋本先生の思いが1978年(昭和53年)開催の『地湧の思想大会(『地湧きの思想1 柏樹社)に少し記戟されている。
今まで医師や専門家に対して、警鐘を鳴らしてきたところ、今度は突然、農業高校を卒業したばかりの人達にでもわかるように、というオファーで、連載を始めたのだという。
多分、今までの医学誌向けとは大いに勝手が違ったと思われる。 
 橋本先生「動いてもらうのは本人。治すのも本人。アシスタントとか、コンサルタントとかそういう立場にあるのが医者だと思う。それには自分が熟達しなければ、プロフェッションとしての値打ちがないと思う」と述べている。
難しい事柄を専門家向けに説くよりも、知らない人に簡単にかみ砕いて説明するほうが大変なのは周知の事実であるが、同誌への連載はのちに『万病を治せる妙療法』 としてベストセラーとなる。  この本の主題は、主に操体的な考え方の紹介である。口絵のページにいくつか実際の技法が書かれているが、操者のポジション、抵抗の具合などについては全く触れられていない。本来熟達したプロフェッショナルがやるべきものであるから、実際どのようにやるのか、というところまでは詳細に触れていない。  この本は、第一章の「病気はなぜ治らないのか」以降がメインなのであり、自然法則のルールに従ってどのように暮らせばよいかという指針を記したものである。 
身体運動の法則においては重心安定の法則(からだの使い方)、重心移動(からだの動かし方)、手は小指、足は拇趾(おやゆび)等が分かりやすく説明されている。

しかし、人間は現金なものだから、生活を正そうとする前に、手っ取り早く痛みがとれるものに飛びつく傾向がある。
人々は結局、この本の口絵の写真、イラストに興味を示したのである。 これが非常に曖昧模糊としたもので、介助の仕方、操者のポジションなど詳細は書かれていない。
しかし読者は見様見真似、あるいは自分の思いこみで操体法を捉えることになった。 面白いのは、一般の方向けの本としながらも、寝違えの場合、「素人はあまりやらないほうがいい」「専門家のカイロプラクチックをやる人、整復術をやる人々にはハツキリ申しておきます。運動分析の原理を理解せずに個人のコツにとどまり、しかも自己のクセで左右いつも同じ手順でやるような無法者であってはならない」「いやしくも施術者は運動生理を体得してもらわなければ困る」 
(同173P)と、クギをさしている。 

これはどう見ても一般人向けのメッセージではなく、プロへのメッセージであろう。 間に合っている(自力自動でできるものと、生活中での操体の応用、息食動想)場合と、間に合っていない場合は、臨床家の出番が必要であることを述べており、また臨床家へも一言述べているのである。  橋本先生はその後NHKのドキュメンタリーに出演しているが、この時、操体法という名称はまだない。それから数年後にラジオに出演しているが、この時は操体法、と紹介されている。 このテレビ出演を契機に、温古堂先生の名は日本中に知れ渡るのである。 先生はNHKに出演する前に「山寺の晩鐘」という随筆を書き、医学誌に寄稿している。自分が長年提唱し続けてきたことは、医学界からは理解されなかった。「お手手つないでみな帰ろ」「幸いな吾が家に、母なる自然法則の憶に」と、ついに断筆を決めたのだった(1974年。77歳)。 しかし、断筆の後にテレビに出演し、日本国内から、様々な症状疾患に悩む患者が集まるようになった(1976年79歳)。  当時の番組のビデオを見ると
「現在温古堂診療所では、新規の患者さんは受け付けておりません」というキャプションが最後に入っている。 
 おそらく再放送を録画したものだと思うが、大勢の人が温古堂につめかけた痕跡が見られるのであった。

周囲の理解を得られなかった60代後半から、信じてやってきた医術が認められてきた70代後半にかけて、操体も少しずつ変化してきた。楽な動きの可動極限でたわめの間を作り、呼気とともに瞬間急速脱力するという、
正体術そのものから「快適感党の最高で、たわめの間をつくり、脱力する」 というように、シフトしてきたのである。  もっとも、実際の臨床においては、楽ときもちよさはまだ混同されていて、現在のように楽な動き(運動感覚差)と、きもちのよさ(生命感覚)は明確にはされていなかったようである。 
 当時は、楽な動きは、きもちがいいもの、イコール気持ちよさ、という認識があったのである(現在でも明確にしていないケースも多い)。つまり、楽な動きは、きもちがいいはず、という操者の思いこみや決めつけが存在していたのである。 
 そして1982年、敬三先生は85歳となり、現役から退く。
「誰か操体ができる代診の先生はいないか」という依頼を受けた三浦先生は、今昭宏先生を紹介する。  今先生は、仙台赤門鍼灸柔整学校の鍼灸科在籍中、操体法研究会に入って学んでいた。その時、東京で開業している同校の先輩が操体の講義に来ることになった。その先輩というのが三浦先生だったのである。  今先生の温古堂での勤務が決まった。

今先生の代診初日には、三浦先生も東京から仙台に顔を出していた。 温古堂での代診初日、この時の様子は両先生から詳細をうかがうことができた。  以下、今先生の原稿を掲載する。 

1983年5月11日の仙台の温古堂診療室の朝、私が温古堂勤務初日の出来事でした。
橋本敬三(翁)先生86歳と私26歳と三浦先生34歳、他に受付のみよちゃん、事務参与、そして今は亡き佐藤武先生がそこにおりました。
最初の患者さん(おばあちゃん)がベッドに寝ました。 私は足のゆらし操法(足指もみ)からスタートしました。すると突然、 「他力は便うなー!今君は原始感覚を指導しろおー !」と翁先生に怒鳴られました。 ものすごくびっくりしました。 「気持ちのよさで治るんだから、そのことを患者さんに教えろ」。ということでした。翁先生がやれということですから、絶対服従です。
いつも火鉢の所に座って私のやっている操法を監視しているのですから逆らうわけには行きません。 私はそんな翁先生の視線を感じつつ操法のときに患者さんに動きの感覚をたずねながら、とにかく気持ちのいい動きとたわめと脱力を心がけました。 するとどうしても操体の本に出ている方法と違う方法をやらなければならなくなって、 少し困りました。 
 動く方向も回数もたわめる時間も脱力の仕方も全部を気持ちのよさに合わせてやる方法が続きます。 翁先生もおもしろそうにそんなやりとりを見ていました。 しばらくためして私はそのことを翁先生にたずねてみました。 質問の答えは大体わかっていました。 でもあえて私は質問をしてみました。 「先生、本には楽な方にとか3-4回とか息を吐きながらとかと書いてありますけど、これは全部を気持ちよさに合わせてやっていいのですよね?」 「それでいいんだ。気持ちのよさを味わうのが大事なんだ」 翁先生は力強く答えました。 そんなカミナリ事件をきっかけに、操体の本家である温古堂での技法が目安としての方法を指導する技法から、
一歩進んで原始感覚主体の操法へと進化したのでし た。 (「VisionS」 2005年秋号掲載)

  同じその日の午後、三浦先生は橋本先生とお茶を飲んでいたという。 その時「気もちのよさをききわければいいんだよ。気もちのよさで治るんだからな」と、橋本先生が誰に言うでもなく放った言葉は、天から落ちる落雷ではなく、雷が地面から発している位ショッキングなものだったそうである。 

その言葉は、それまでの14年間の三浦先生の操体臨床に対する考えや姿勢、立ち向かいを全く変えてしまう出来事となった。 しかし、ここで、楽もキモチヨサも同じじゃないか、と三浦先生が素通りしていたら、現在の快適感覚をより重視する操体は存在しなかったのである(これには本当に感謝している)。  これが、操体が「楽な動きのききわけ」から「きもちよさのききわけ」に変化した瞬間である。私が三浦先生から聞いたかぎりでは、橋本先生もそれまでは「きもちいいこと すれば良くなるんだ」と言いながらも、楽な方、辛くない方へ動かし瞬間的に脱力させるという操法を行っていたという。
これは、橋本先生の考えの中で 「楽ときもちよさは違う」ということが確固たるものとなってきたのだが、実際の臨床でそれをどのように通すのか、というところまでは、実践されていなかったのであろう。 
 橋本先生は85歳から90歳の間、近しい弟子達に、 ・呼吸は自然呼吸でよい(呼吸に集中すると、感覚のききわけが鈍くなる) ・楽ときもちよさは違う ・動きより、感覚の勉強をしなさい とおっしゃっていたそうだ。 
 また、今先生が橋本先生に「『万病』に書いてあることは、間違っていませんか」と尋ねたところ「間違っている」という答えが返ってきたという。
どこが間違っているのかは、よく考察すれば判るはずである。 
 この書籍が今現在でも売れ続けているため、新たに操体に触れる方も、操体とは、動きを比較対照して、楽な方に動かして瞬間脱力、という旧来スタイルの操体法を覚えてしまうことになる。

更に残念なのは、手技療法家がこのような一般向けの書籍を読んで、深く理解、思考することなく鵜呑みにして、そのまま試しているケースが多いということだ。 
 そのよう場合、冒頭のように「操体は効果がない」という話も、耳に入ってくることがある。
また、操体は簡単である、という風説もあるようで、何が根拠になっているのかと言うと、お年を召してからの橋本先生の操法である。

現役時代は身体を駆使してアクロバティックな事をされていたという。
操体法が注目を浴びたのは先生が80歳をすぎてからだが、当然、若い頃より、試される動診の数が非常に極端に限られてきたのである。 

よく知られているのが ・膝二分の一屈曲位にて、足関節を背屈 ・膝二分の一屈曲位にて、膝を左右に傾倒 ・伏臥位にて、膝関節の腋窩挙上 の3つだろうか。 
 また、名人は難しいことをいとも簡単にやってみせるものだが、 まさにその通りで、見る人にとってはいかにも簡単に出来そうに見えたらしい。
中には、橋本先生の治療を見て、 「あんな簡単だったらすぐ出来る」 と、即開業し、半年足らずで廃業するというケースもあったときく。 
 三浦先生によると、橋本先生は、患者には「簡単だ」と言い、弟子には「とんでもないものに足をつっこんでしまったなあ」とその奥義の探さを話されていたそうである。 

現在の操体は、「きもちのよさをききわけ、味わう」という橋本先生の晩年に辿りついた数えに従って、進化している。 
 例えば、1985年~1986年当時「楽ときもちよさは違う」と、公言した三浦先生は、周囲から反発を買い、孤立してしまったという。 
 しかし、当時「楽と気持ちよさは同じではないか」と言った操体の識者も、近年では『気持ちよさ』という言葉を認めている。
操体の識者からして、やっと最近こうなってきたのだから、操体に深く関わっていない臨床家や、一般の方にはまだまだ浸透していないのが実情だ。  (補足:現在では『きもちよさ』というキーワードが操体の世界にも浸透しつつあるが、 『楽』と『きもちよさ』の区別が明確になっていない)  40年前、「自分のやっていることは60年先を行っているから、今理解されなくても仕方ない」と、橋本敬三先生は三浦先生に語っている。 
 橋本先生亡き後、何故きもちのよさで治るのか、命あるものは何故快に従うのか、遺伝子の研究なども少しづつ解明されてきた。
いのちあるものは、快に従う。それが正しい方向性なのである。  
(畠山裕美加筆修正) 

『操体法 ~生かされし救いの生命観~』(たにぐち書店、三浦寛、今昭宏、畠山裕美共著より)