目次
操体とは
操体とは
操体とは、仙台の医師 橋本敬三先生(1897-1993) が
昭和初期、正體術矯正法(整体ではない)にヒントを得て創案し、体系づけたものです。

橋本敬三(1897-1993)
操体法創始者
操体は、単なる体操や健康法ではありません。
橋本敬三医師は「健康な人が病気にならないための未病医学」である、と言っています。
実際に、医師が治療に用いていたものです。
息・食・動・想という生活の営みのバランスが崩れると、
ボディに歪みが生じると考えます。
その、ボディの歪みを正すことによって、
その結果として、症状疾患を改善させることを目的とします。
操体の動診・操法では
不快や痛みのある動作を無理に行ったりしません。
ある動きを試してみて(動診)
操法に移ります。
① 楽な動きか、辛い動きか(第一分析:橋本敬三時代)
② 一つ一つの動きに快適感覚をききわけ、味わう(第二分析:三浦寛)
第三分析以降は「動き」にとらわれない分析法になります。
③ 刺激にならない皮膚へのアプローチ(第三分析 渦状波:三浦寛)
④ 呼吸と空間を用いたアプローチ(第四分析:息診息法:三浦寛)
なお、2015年前後、
三浦寛は身体の軸と重心の関係を
新重心理論として体系化しました。
生命の働きを尊重しながら、
からだを本来の状態へと導いていく
生命の理(ことわり)に基づいた方法が、操体です。
このように操体は、動きだけにとどまらず、皮膚、呼吸、重心など生命の働き全体を手がかりに、からだを本来の状態へ導いていく方法へと広がっています。

三浦寛(1948-2025)
橋本敬三先生直弟子
操体と操体法の違い

※操体と操体法の違い。「操体法」は、「操体」のほんの一部でしかない。
「操体」は、仕組み。橋本哲学、基本となる考え方、からだの使い方、動かし方のルールなどを指す。
一方「操体法」は、テクニック、メソッドの部分を指す。
操体を「受ける」場合は、「仕組み」を知らなくても「操体の指導者」がその仕組みを肩代わりしてくれるが、セルフケアを行う場合、あるいは「操体の指導者」である場合は「仕組み」を理解することが大切。
「操体法の本や動画を見ても良くわからない」と言われることがあるが、それは「操体法」(テクニック)しか提供されていないから。
操体の分析法
ボディの歪みを正すためには色々な方法があります。
昔は
- 楽な方に動かして、瞬間的に脱力させるものがメインでした(第一分析)橋本敬三先生の時代
現在は
- 「きもちのよさをききわけ、味わう」ことにより、ボディの歪みを正す(第二分析)
- 皮膚への接触(アプローチ)により、ボディの歪みを正す(第三分析)
- 呼吸(息診・息法)を用いてボディの歪みを正す(第四分析)
- 軸の適正化をはかる(新重心理論)これのみ、分析ではなく「分類」としている。
この他にも、足趾の操法®など様々な引きだしがあります。

原始感覚
操体における原始感覚とは、
快か不快かをききわける力のことです。
人間のからだには、本来この感覚が備わっています。
しかし現代人は、
物事をからだの感覚ではなく、
- 正しいか正しくないか
- 損か得か
- 良いか悪いか
といった頭の判断で決めてしまうことが多く、
この原始感覚が鈍っていることがあります。
操体では、この鈍ってしまった原始感覚を
もう一度呼び覚ますことを大切にします。
そのための手がかりが、
**「快(きもちよさ)」**です。
快適感覚の有無をききわけ、
そのきもちよさを十分に味わう
きもちのよさを十分味わうことによって、原始感覚が呼び覚まされ、
からだ本来が持っている自然治癒力(からだ自身が持っている、治すちから、治せるちから)が発動します。
息食動想
操体の基本となる考え方が
息・食・動・想です。
息(呼吸)
食(飲食)
動(身体運動)
想(精神活動)
この四つの生活の営みは互いに関係し合い、
バランスをとっています。
橋本敬三はこれを
最小限責任生活必須条件
と呼びました。
この営みのどれかが悪くなると、他の営みの
働きも低下します。
逆に、どれかが良くなると、他の営みの働きも良くなります。
これを、橋本敬三は
同時相関相補(連動)性
と言っています。
さて、この営みのどれかの働きが低下するとします。
そうなると、ボディーに歪みが生じます。
ボディーの歪みが何故生じるのか、と明言しているのは
操体の他に殆どありません。
大抵は「鞄を片方の肩に掛けるから」
「片方の歯で噛むから」という結果論になっています。
また、世の中には呼吸の専門家、食養の専門家、身体活動・運動の専門家、
心の専門家がいますが、操体はその四つをまとめて見ています。
その中でも「身体運動」(動)の部分をメインにアプローチし、他の営みの働きを良くしよう、というのが操体です。
なお「きもちのよさ」は「癒し」につながり「想(精神活動)」にも深く関わってきます。

操体では、病気は突然起こるものではなく、
息食動想の、営みのアンバランスから、
からだの歪み、感覚の異常、機能の異常を経て
病気として現れると考えます。
逆に、回復もまた
感覚 → 機能 → 器質
の順序で起こります。
これは、西洋医学とは正反対です。
身体運動の法則
息食動想の中の「動」は、
単に身体を動かすという意味ではありません。
そこには 身体運動の法則という、
からだの使い方、動かし方のルールがあります。
この法則に反すると、
からだを窮屈に使うことになり、
やがて ボディの歪みにつながります。
操体では、この身体運動の法則に従った
からだの使い方、動かし方を学ぶことを
基本の一つとしています。
それは、ルールを知らずに
闇雲に「頑張る」という根性論ではありません。
からだの構造(ツクリ)に適った動きを体得し、
それを応用することで
本来の身体能力を取り戻します。
橋本敬三は次のように述べています。
頑張るな、威張るな、欲張るな、縛るな(縛るな、は三浦寛が追加)
これは 「バルの戒め」 と呼ばれています。
ここで言う「頑張るな」とは、
怠けるという意味ではありません。
からだの法則を知り、
それに従った 最短のコース を学び、
応用していくことを意味しています。
この身体運動の法則は、
からだの使い方をシンプルに示したもので、
あらゆる身体運動の基礎となるものです。
この法則に従って実践することは、
日常の動作だけでなく、
スポーツや芸術など
あらゆる身体能力の向上にもつながります。
その中でも、からだの使い方、動かし方のルールを
真理を説いたお経になぞらえたものを、橋本敬三は
「般若身経」(般若心経ではない)と名づけています。
これを「体操のようなもの」と捉えている場合が多いのですが、
これは、からだの使い方、動かし方のルールを示したものです。
息・食・想との関係
息食動想は互いに関係し合っています。
呼吸をすると、
横隔膜が働き、筋骨格系も動きます。
食(飲食)については、
人間の歯の数から、その食生活のあり方を
読み取ることができます。
また、想(精神活動)は
姿勢や身体の状態にも現れます。
言葉と心(想)
息食動想の「想」は、
精神活動を意味します。
操体では、心の働きもまた
からだと深く関係していると考えます。
橋本敬三は、
「言葉は運命のハンドル」
と言っています。
人が自ら発する言葉は、
その人の現象を生み出し、
やがてその人の運命にも影響していきます。
しかし、からだが病んでいる時や
調子がすぐれない時に、
「明るく大らかに生きましょう」
と言われても、
なかなかそのような気持ちにはなれないものです。
そこで操体では、
言葉を統制することをすすめています。
言葉を整えることによって、
言葉の上から心の波動を
よい方向へ向けていくことができるからです。
言葉を統制することは、
心の平静も保つことにつながり、
それはまた、からだの状態にも影響していきます。
言葉・心・からだは互いに関係し合っており、
操体ではそれらを一つの生命の働きとして捉えています。
操体と他の療法との違い
一般的な他力療法は、治療者とクライアントの一対一での関係性です。
操体の場合は「からだ」「クライアント」「治療者(施術者)」の「三位一体」の関係になります。
「からだ」が主語、主役です。

補足:操体の伝え方について
受講生やクライアントの方から、
「操体法を他の人に説明するのは難しい」と言われることがあります。
おそらくそれは、
お釈迦様が説法する際、
聞く人によって例えを変えたのと同じことなのではないかと思います。
つまり、操体の説明にも
その人にとっての最適な説明があるということです。
セルフケアをしたい人に対する説明と、
操体の施術者に対する説明、
あるいは手技療法の専門家に対する説明は、
それぞれ異なってくるはずです。
操体の本来の位置
操体や操体法は、
健康法・養生法・体操のように理解されることがあります。
しかし、もともと操体は
医師が臨床の現場で用いていた方法です。
健康の度合いがある程度保たれている場合は、
健康法や養生法として
自分自身でからだを整えることができます。
しかし、健康の度合いが低く、
セルフケアでは対応できない状態の場合には、
医師や操体の臨床家が関わり、
まず健康の度合いを引き上げる必要があります。
そして、患者さんがある程度健康を取り戻し、
自分で健康管理に関わることができる状態になったとき、
「これをやってみてください」
と指導されたものが、
現在「健康法」「養生法」として
伝わっている操体なのです。
楽と快と不快
こちら、少し専門的な話になりますが、大事なことなので、記しておきます。
橋本敬三は、85歳の時、三浦寛に「楽と快は違う」と明言しています。
楽と快の区別ではなく、楽と快と不快、で考えると、何故「楽」を問いかける第一分析と「快」を
問いかける第二分析の行程が全く違うのか、わかってきます。
操体実践者や指導者でも、この違いがわかっていないケースをよく見かけます。
見分け方は
「どちらがきもちいいですか?」(快は比較対照しないのに、比較対照で問いかけている)と、聞いている場合です。
第一分析「どちらが楽ですか、辛いですか?」(比較対照)
第二分析「この動きに、きもちのよさがききわけられますか?からだにききわけて、教えてください」
(きもちよさを問いかける場合は、ひとつひとつの動きに、快適感覚の有無をききわける)

